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人生朝露

人生朝露

サリンジャーと荘子。

荘子です。
荘子です。

『ナイン・ストーリーズ (Nine Stories) 』(1954)J・D・サリンジャー著。
サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ (Nine Stories) 』のつづき。「バナナ魚にはもってこいの日(A Perfect Day for Bananafish)」という短篇の主人公・グラース家の長男シーモアのお話は、続編でありながら過去を描いた別の小説『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章』にもでてきます。

参照:『完全なる首長竜の日』と胡蝶の夢。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5158/

「バナナフィッシュ」を理解するために読まれることも多い作品でして、長いですが、この冒頭の部分を引用します。

『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章』 (新潮文庫)
≪この夜シーモアが、懐中電灯の中で読んでやったのは、彼が大好きな話で、道教のある説話であった。フラウニーは、シーモアが読んでくれたのを覚えていると、今日でも断言して譲らない。

 秦の穆公が伯楽に言った「お前ももう年をとった。お前の子供たちの中に、お前に代わって馬の目利きとして余の雇える者が、誰かおらぬか?」伯楽は答えた「良馬は体格と外観によって選ぶことができますけれども、名馬は--埃も立てず足跡も残さぬ名馬というものは、消えやすく、はかなく、微かな空気のように捕らえがたいものでございまする。わたくしの倅どもはいたらぬ者ばかりでございまして、良馬はこれを見せれば分かりまするけれども、名馬を見抜く力はもっておりませぬ。しかしながら、私には九方皐(きゅうほうこう)と申す友人が一人ございまして、薪と野菜の呼び売りを生業といたしておりまするが、馬に関することどもにおきましては、決してわたしに劣るものではございませぬ。願わくはかの男を御引見下さいまするよう」
 穆公はそのとおりにしたあげくに、馬を求めてくるよう仰せられて、その男を急派したのである。三ヶ月の後、男は馬が見つかった旨の報せ(しらせ)をもって戻ってきた。「その馬は、目下砂丘におりまする」と男は、そう申し添えた。「どういう種類の馬か?」と公は尋ねられた。「栗毛の牝馬でございまする」というのが、その答えであった。しかしながら、それを連れに遣わされた者が見ると、馬はなんと漆黒の牡馬ではないか!いたく興を損じられた公は、伯楽を呼び寄せて、「余が馬を探して参れと命じたお前の友人は、とんだ失態を演じておったぞ。馬の毛色はおろか、雌雄の別すらわきまえぬ男ではないか!あれでそもそも馬の何が分かると申すのだ?」伯楽は一つ大きく満足の吐息をついた。「あの男はもうそこまでも至りましたか!」彼は声をはずませて言った「はてさてそこまで行けばわたしを一万人寄せただけの値打ちがございます。もはやわたしの遠く及ぶところではございませぬ。皐の目に映っているのは魂の姿でございまする。肝心かなめのものを掴むために、些細なありふれたことは忘れているのでございます。内面の特質に意を注ぐのあまり、外部の特徴を見失っているのでございます。見たいものを見、見たくないものは見ない。見なければならないものを見て、見るに及ばぬものは無視するのでございます。皐は馬以上のものを見分けることができまするほどに、それほどに冴えた馬の目利きなのでございまする」
 いよいよその馬が到着してみると、なるほど、天下の名馬であることが分かった。

 わたしがこの説話をそっくりそのまま書き記したわけは、例によってまたもや脱線をやらかして、生後10カ月の嬰児を世の親たちや兄たちに、文章でできた格好なおしゃぶりを一つ紹介しようというのではなくて、全く別の理由に基づくものなのである。(J.D.サリンジャー著『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章』より 野崎孝・井上謙治訳 新潮文庫)≫

・・・この寓話は『列子』の説符篇にあります。日本語訳をする前、英語の原文でもかなり丁寧に訳してありそうですし、『列子』は漢字だけを辿っても読めるので、そのまま原文だけ載せます。

列子(Liezi)。
『秦穆公謂伯樂曰「子之年長矣,子姓有可使求馬者乎?」伯樂對曰「良馬、可形容筋骨相也。天下之馬者、若滅若沒、若亡若失、若此者絕塵弭轍。臣之子皆下才也、可告以良馬、不可告以天下之馬也。臣有所與共擔纆薪菜者、有九方皋、比其於馬、非臣之下也。請見之。」穆公見之、使行求馬。三月而反、報曰「已得之矣、在沙丘。」穆公曰「何馬也?」對曰「牝而黃。」使人往取之、牡而驪。穆公不説、召伯樂而謂之曰「敗矣、子所使求馬者。色物、牝牡尚弗能知、又何馬之能知也?」伯樂喟然太息曰「一至於此乎!是乃其所以千萬臣而无數者也。若皋之所觀、天機也、得其精忘其麤、在其內而忘其外。見其所見、不見其所不見。視其所視、而遺其所不視。若皋之相者、乃有貴乎馬者也。」馬至、果天下之馬也。』(『列子』説符篇 第八)
→秦の穆公が伯楽にいわく「お前ももう年だ。お前の子供達の中で、お前の代わりに馬の目利きをしてやる者はおらんか?」伯楽が応えていわく・・(中略)・・、馬が到着すると、果たして天下の名馬であった。

『九方皋』 ?小勇画。
『列子』のこのお話は、一応辞書にも載っている成語『牝牡驪黄(ひんぼりこう)』の由来となったものです。『日本書紀』の元ネタ『淮南子(えなんじ)』の道應訓にもほぼ同じものがあります。

参照:『淮南子』 道應訓
http://ctext.org/huainanzi/dao-ying-xun/zh
『淮南子』の場合、九方皋という名前が出てきませんで、〆の部分で(故に老子曰く「大直は屈なるがごとく、大巧は拙なるがごとし。」)とのオチがつきます。この場合、サリンジャーが引用したのは、『列子』であると断言できます。

この『シーモア序章』のラストに『荘子』も登場します。
『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章』 (新潮文庫)
≪彼は、善意ではあるが、やはりこのような難しい論争の仲裁には全く不向きであるという様子をしていた--そして、わたしは経験からわかっていたが、どんなに奇跡的であろうとも、わが家の居間に平和が蘇ろうとしていたのだ(「聖人ハ躊躇シテ以テ事ヲ興シ、毎(くら)キヲ以テ功ヲ成ス」-「荘子」第二十六)シーモアがいかに有能に、しくじりながらも問題の核心にこぎつけ、その結果数分後には三人の対戦者同士が実際に接吻をかわし仲直りしだしたかは詳しく書かないつもりだ。(同『シーモア序章』より)≫

Zhuangzi
『曰「丘、去汝躬矜與汝容知、斯為君子矣。」仲尼揖而退、蹙然改容而問曰「業可得進乎?」老萊子曰「夫不忍一世之傷、而驁萬世之患、抑固窶邪?亡其略弗及邪?惠以歡為驁、終身之醜、中民之行進焉耳、相引以名、相結以隱。與其譽堯而非桀、不如兩忘而閉其所譽。反無非傷也、動無非邪也。聖人躊躇以興事、以每成功。』(『荘子』 外物第二十六)
→老萊子曰く「孔丘よ、そなたの見栄と知識を捨て去れ。さすればそなたは真の君子と成り得るだろう」。仲尼はそれを聞いて一歩退き襟を正して尋ねた。「わたくしの学問は大成し得るのでしょうか」老萊子曰く「一代の傷を忍ばずして、萬世に禍根を残す。元からそうなりたかったのか?それとも知が及ばなかったのか?(中略)堯を称揚し桀を誹るよりも、双方ともに忘れ去って毀誉褒貶から離れるがよい。反すれば必ず傷を負い、動けば必ず邪となる。聖人はためらいがちに事を興し、なるに任せて功を成す。」

大まかに言って「無為」を語っているところです。

・・・というわけで次なる荘子読み。
J.D.サリンジャー(Jerome David Salinger, 1919~2010)。
J.D.サリンジャー(Jerome David Salinger, 1919~2010)であります。言わずと知れたベストセラー『ライ麦畑でつかまえて』の作者です。サリンジャーは、もともとその傾向があったんですが、50年代くらいから、はばかることなく東洋の古典を作中に織り込むようになります。特にグラース家の一連の物語では仏教だけでなく、『老子』『荘子』『列子』も登場します。このうち『シーモア序章』は、物語の背骨の部分に、道家思想と禅仏教の観念が数多く見られます。

『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章』 (新潮文庫)
≪彼が歩道のふちに立ってバランスをとっている様子、手の位置から--それに加えるに未知数Xから、わたしは当時でも、今と同じように、彼があの魔法にかけられたような時間をものすごく意識していたことがわかっていた。「そうむきにならないで、ねらってごらんよ」と彼はそこにまだ立ったまま言った。「狙って相手のビー玉に当てたって、それは単なる運だよ。」彼はわたしたちに話しかけ、語りかけていたのだが、魔法のようなあの時刻の雰囲気をこわすようなことはなかった。が、わたしがそれを破った。しかもわざと。「狙えば、運じゃないじゃないか」わたしは後ろにいる彼に向かって言った。(中略)「だって、そうなんだもの」と彼は言った。「相手のビー玉に---アイラのビー玉にぶつけたら嬉しいだろう。もし、うまくビー玉にぶつけて嬉しいなら、こっちの玉がうまく相手のビー玉に当たることなんてことを心の中では期待してなかったからだよ。だからそこには、なにがしか運というものがはたらいているはずなんだ。そうさ。そこには偶然というものが多分になきゃならないんだ」(同上)≫

この小説で象徴的に描かれたビー玉遊びのお話。これも「無為」ですね。

Zhuangzi
莊子曰「射者非前期而中、謂之善射、天下皆羿也、可乎?」
→荘子いわく「あらかじめ的に当てようとせずとも的に命中させた者を名人とするならば、天下の人は全て伝説の弓の名人羿(げい)と同格あるとも言えるが、それでよろしいか?」

参照:莫耶の剣の偶然、莫耶の剣の運命。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5091/

中島敦著『名人伝』
≪一通り出来るようじゃな、と老人が穏おだやかな微笑を含ふくんで言う。だが、それは所詮「射之射」というもの、好漢いまだ「不射之射」を知らぬと見える。(中島敦『名人伝』より)≫

中島敦の『名人伝』とネタ元が一緒です。

今日はこの辺で。


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